■お母さん■

想い 渡辺藤一 画
想い 渡辺藤一 画

●映画監督・脚本家 新藤 兼人(しんどう かねと)氏(95歳)

お母さんがわたしを生んだのは42歳のときだった。明治45年(1912年)4月22日。上に12違いの兄がいて、その下に姉が二人いた。いずれもわたしまで4つ違いだった。

母乳で育った。毎夜寝るとき、お母さんの胸をひらいて乳房をしゃぶった。小学校へ上がるまでそうしていたので、お母さんの乳房はしなびていたが、胸をひらくと甘酸っぱい匂(にお)いがぷうんとおそってきて、なんとも言えない気持ちだつた。お母さんはわたしのことを「目の中へ入れても痛くない」といってかわいがった。姉たちはそれを妬(ねた)んで、「腰巾着」と呼んだ。わたしはいつもお母さんの腰にぶら下がっていた。
お母さんは、広島から草深い田舎の百姓へ嫁入りしてきた。なぜ市(まち)から田舎へきたのか、その経緯はわからない。うちは山や田畑を多く持った百姓だった。

秋の稲刈りがすむと百姓はほっと一息入れるのである。女たちはお寺参りをする。うちから500メ−トルぐらいの所に寺はあった。細い田の中の道を通って行く。子供は提灯(ちょうちん)を持って足元を照らして先を行き、集落の女たちは後につづいた。お母さんはお寺参りの晩はほんのり白粉を塗っていた。わたしは集落のどの女よりもお母さんが美しいと思って誇らしい気持ちだった。

寺へ着くと大黒さん(和尚の妻)が饅頭(まんじゅう)を一つくれる。それが目的で子供はお母さんについて行くのである。説教師が高座に上がってありがたい話を始めると、子供はお母さんの膝(ひざ)を枕に寝るのである。わたしのお母さんはいつの間にか眠っている。昼の激しい労働で疲れきっているから、えらい坊さんの説教はほどよい眠り薬なのである。お坊さんもそのことは承知だから咎(とが)めない。居眠りの波の中でありがたいお説をつづける。(つづく)

達人−その限りなき挑戦へ

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