■夢とロマンと希望を胸に−8■
●借金返済計画 (株)マルハン代表取締役会長 韓 昌祐 氏 ボウリングは、潮が引くように人気がなくなった。西原産業(株)が経営的にどん底になったのは、1975年(昭和50年)だった。1日に平均100ゲ−ムを消化していたレ−ンも、お客さまの出足の鈍い日には1日わずか7ゲ−ムにまで落ち込んでいた。 流行は恐ろしいものだ。つい3年前まで、お客さまが2時間でも3時間でも待ってボウリングに熱中した光景が夢のようだった。人気がなくなると、待ち時間なしでゲ−ムがスタ−トできるのに、人はレ−ンにボ−ルを投げなくなる。1ゲ−ムを100円に値下げしても、人はボ−ルを投げなくなるものだ。時代には逆らえないと思った。 静岡市の「静清フレンドボウル」にボウリング機械を導入した日綿實業に励まされ、ぼくはだんだん立ち直っていった。ある日、日綿實業から峰山本社で経理担当だった藤原清之に電話がかかってきた。 「西原産業さん、今後、ボウリング経営は見込みが立たないでしょう。それなら元金だけで、ボウリング場をどこかに売りませんか?」と言ってきた。この申し出に、ぼくはこう答えた。「日綿實業さんには、これ以上迷惑はかけません。元金だけで売るのなら、もう一回ボウリング場をやらせてほしい!」と無理なお願いをした。 それだけ、ぼくはボウリングに愛着があった。一生懸命に働かない社員は別にして、「どんなに苦しくてもボウリング場の人員整理だけはしたくない」と、ぼくは考えてきた。経営の急場しのぎにボウリング場のレ−ンの半分に板を敷いて、即席のバラエティショップのようなショッピングセンタ−を次々に開店させた。そこが、ボウリング場の従業員が自力でめしを食うための働き口になった。そうして地道に商売をしていれば、またいつかお客さまがボウリング場に遊びに集まる日がやってくるかもしれない。 日綿實業への借金返済計画を思案しているさなかに、ぼくはきっぱりとこう言った。「日綿實業には、大変にお世話になりました。とりあえず、14億円を返しましょう」ただし、返済に条件をつけた。今のぼくにできることと、できないことがある。こういう返済の仕方を約束した。 1年目は、毎月25万円ずつ返す。2年目は、毎月50万円ずつ返す。3年目は、毎月75万円ずつ返す。4年目は、毎月150万円ずつ返す。こうして返済の金額を少額から負担にならないように段階的に大きくしていく方法を提案した。 日綿實業は、ぼくの考えに大変理解をしめしてくれて、承諾してくれた。「できないことは、言わない。言ったことは、必ず実行する」それが莫大な借金に立ち向かう、ぼくの信条だった。 借金は、日綿實業や幸福相互銀行だけではなかった。そのほかにも小口の融資をたくさん受けていた。それでも経理担当の藤原には、厳しくこう言っていた。「銀行の返済、利息と地代、それから家賃は、約束の日から一日たりとも遅れてはならん!」 巨額な借金返済を抱えた自転車操業で、経理の藤原は神経をすり減らす大変な日々を送った。あのころの資金繰りの苦しさ、重圧、必死さ、血のにじむ思いを経験したのは、ぼくと藤原ぐらいだろう。 毎月、2000万円から3000万円のお金が足りなかった。毎月20日をすぎたころ、経理の藤原から必ず連絡が入った。「社長! 今月もまた2000万円足りませんよ!」 ぼくは、会社の幹部も家内も知らないところで、資金繰りに死にも物狂いになっている。毎月、毎月、「お金が足りない!」「お金が足りない!」と藤原から催促されると腹が立った。 「ぼくは、ニセ金を作っているのではないんだ! そんなに、簡単にお金を作れるもんじゃないんだ!」と、藤原を怒鳴りちらした日もあった。(つづく) |