■夢とロマンと希望を胸に−16■
●郊外型パチンコ店が予想以上に当たった (株)マルハン代表取締役会長 韓 昌祐 氏 哲がこの世から消えてから、ぼくは完全に事業意欲を喪失してしまっていた。莫大な借金がまだきれいに返済できていないころの悲劇だった。 彼が亡くなる前年、1977年(昭和52年)1月に、姫路市にマルハンでなく「ダイハン御着店」という店舗を開店した。同じ年の6月に「ダイハン明石店」を開店している。 それから1980年(昭和55年)10月に、静岡市の「ボウルアピア(元・静清フレンドボウル)」で半分の60レ−ンが再開するまでの約3年半、マルハンの事業にぽっかり空白の時間が流れている。 子どもの死は、子を失った親でないと気持ちがわからない。大変に辛い出来事であった。魂が抜けたような鬱状態は1年以上も続いた。ぼくがどのように正常な精神をとり戻していったのか、正直にいうと自分でもよく憶えていない。 社会全体の流れが車社会に移っていったころ、うちは「マルハン姫路店」、「マルハン神戸店」のオ−プンで本格的な郊外型パチンコ店舗のはしりを作っていた。当時、関西圏のほとんどのパチンコ店はJRや私鉄の駅前に建っていたので、関西初の郊外型店舗になった。「マルハン姫路店」、「マルハン神戸店」は、幹線道路沿いの田んぼの稲刈りをして建設した店舗だった。 ぼくが京都市内に出たのと同じころ、鈴木嘉和に静岡市の「静清フレンドボウル」に行ってもらった。ボウリング場のどん底は1975年(昭和50年)ぐらいで、それから少しずつだがお客さまが戻っていた。1978年(昭和53年)には、1レ−ンのゲ−ム数が1日で平均20ゲ−ムぐらいまで持ち直していた。 そして郊外型パチンコ店の「マルハン姫路店」、「マルハン神戸店」が、予想以上に当たっていた。その機に乗じて、低迷していたボウリング場を復興させたいという願いが働いていた。 1975年(昭和50年)10月に静岡市の「静清フレンドボウル」が休業に入ってから4年が過ぎていた。建物は人が管理しないと風化していくものだ。床のじゅうたんは反り曲がっていた。壁のクロスもところどころ剥がれていた。そのころの西原産業はまだ貧乏所帯だった。すべてを修繕する余裕などなかった。内装業者に、痛んだところだけを部分的に修繕してもらい、ボウリング機械のリニュ−アルもふくめ約1億円を投資し、約10ヵ月かけて、「ボウルアピア」と改称して復活させた。 「ボウルアピア」は2階建てで、ツ−フロアで120レ−ンだった。2階部分の60レ−ンだけを再開したのだ。それは1980年(昭和55年)10月のことだった。その2ヵ月後に、1階部分の60レ−ンをロ−ラ−スケ−ト場に改造して、なんとか利益が出るように「チャ−リ−ワンアピア」としてオ−プンした。 チャ−リ−とは、亡くなった息子哲の米国でのニックネ−ムである。西原産業の起死回生を祈って、そんな名前をつけた。 (つづく) |