普及活動のページ レッツ・ゴー・ボウリング! 第26章
宮田 哲郎
(社)日本プロボウリング協会 (社)日本体育学会・体育経営管理部会員
平成19(2007)年9月1日号
![]() バラ一輪 東郷青児 1897-1978 |
目次 |
ボウリング・ブームの社会史(その4)
2007年版「レジャー白書」が、去る7月25日発売された。
今月は白書の要点を抜粋、ボウリング産業の」行く末について考察を
くわえたあとで、先月のお約束、米国における大ボウリング・ブームを
生んだ「ニュー・デイール政策」についてお話しましょう。
(1)2007年のレジャー白書
新版で驚いたことは、あの「コーホート分析で予言された」参加人口
が、早くも現実となったことです。これは2、010年における予測の
2,510万人が前倒しされた数値なのです。
参加人口は対前年比でマイナス9%でしたが、売り上げはマイナス
1.9%です。個々のセンターについては、近年目立つ閉鎖センター数
・ レーン数を勘案してシュミレートしなければなりませんが、売上減が
意外にも大きくならないのは、顧客が残った(分散した)からでしょう。
胸をなでおろす向きもあるようですが、センター格差が広がっている
現実を見据える必要がありましょう。たとえば、競合会社の閉鎖という
(業界にとっては不幸な)幸運に恵まれたセンターが前年比で一喜一憂
しているように思えますが、如何でしょうか。
人口減は若者に依存する業界に、壊滅的な影響を与えるでしょう。
旧来型プロモーションは、もはや通用しない事態です。業界こぞって
行うべき手段について、本格的に検討する時期ではないでしょうか。
(2)参加者動向を時系列で観察
過去3ヵ年の年代別動向(平均値)と比較すると、男性全体は31,2
%から27,2%へ、女性は24,4%から18,6%へ下落しました。
最も下落幅が大きいのは10歳代の男女で,男性が10、7%減、女性は
11,3%減でした。
どの年代も下落傾向ですが、意外なことに男性の20代のみ1,1%増
しており、逆に近年著しく増加していた60歳以上の男女が減少が目立つ
なか、今後のシニア・プロモーションに期待が集まります。しかし、団塊
の世代を「まとめて」動員できる名案が、ボウリング場のような商業施設
にあるものでしょうか? 分別盛りの人々を動かす大義名分は、単なる
「健康と社交だけ」で通用するものでしょうか?
(3)急減した参加人口
参加人口が3,000万人を切ったのは1988年(昭和62年)
以来の3度目ですが、1993年(平成5年)に4,020万人を記録、
常にスポーツ種目別の首位を占めてきました。今後は若者人口の急減を
うけて、*250万人から500万人程度は減少すると予想されますが,
一つのセンターあたりで換算すると2,500人から5,000人もの
顧客が消える事態となるでしょう。
*コーホート分析(2006レジャー白書)より。
(4)米国ブームの本当の姿
さて、ボウリング先進国から学ぶべきことをお話しましょう。
1960−70年代に起こった米国の大ボウリング・ブームは、政府に
の公共事業を核とした「ニュー・デイール政策の恩恵」で生まれたことを
知る人は多くはないでしょう。今も政治経済史で頻繁に引用される政策は
、1933年に就任したF.D.ルーズベルト大統領の画期的な景気回復
策、社会保障制度のことです。
前任のフーバー大統領は単なる財政均衡主義で、経済に介入しない政策を
とり続けていましたが、1929年ニューヨーク株式市場で始まった大恐慌
(暗黒の金曜日)は、工業指数を55%も低化させ、GDPを半減、大量の
失業を招きましたが、後任のルーズベルトはまったく逆の方向を打ち出した
のです。
すなわち、政府によるテネシー渓谷の大開発(TVA)、全国産業復興法と
、農事調整法施行ですが、これらが国民のスポーツ・レジャーを振興させた
のです。*当時の金額で数百億ドルを注入したと言われるスポーツ振興策は、
経営者が労働者のスポーツ・レクリエーション活動を支援する風潮を生み、
いわゆる「産業スポーツの隆盛」をもたらしたとされています。
* John Lucas smith
*[SAGA OF AMERICAN SPORT]1978
このとき最も恩恵を受けたのは、ボウリングとソフト・ボールだったの
ですが、ボウリングは開拓時代から手軽な遊びであったこと、南北戦争
以来の「軍隊スポーツ」であったこと、第2次世界大戦の勝利が戦後の
好景気をもたらしたことがありました。
更に、ブームの背景には、このころ誕生したテレビ、新聞とラジオなど、
マス・メデイアをうまく使ったBPAAやPBAの戦略が成功したこと、
加えて1946年にデビューしたオート・マテイック・ピン・セッターが
ピン・ボーイを追放、深夜営業による長時間の稼動を可能にしたのです。
しかし、本当のブームが誰の眼にも見えるようになったのは、アメリカ
においてさえ1960年―70年代になってからです。それまで、20年
の「タイム・ラグ」があったのです。今日の日本でも時代や社会と言う
「大きな船」は、静かに、静かに、未来に向かって動きはじめました。
岸を離れようとしている巨船に、いかにして乗り移るか?
不明な仲間と憶測と議論に明け暮れ、ただ手をこまねいているべきか?
参考:(略)アメリカ・ボウリング史
1895年(明治28年):全米ボウリング協会(*American
Bowling congress、略称ABC)発足
テン・ピンズ競技者組織化、競技ル-ル、用品・用具の規格統一に乗出す
1901年(明治34年):ABC、シカゴで第1回全米選手権大会(通称・ABCト-ナメント)開催
1905年(明治38年):最初の*ハ-ド・ラバ-(硬質ゴム)のボ-ル、「Ever
True」が商品化され、主流となる
1909年(明治42年):ヨーロッパで最初のボウリング・センターが、スウェーデンに開設される
1913年(大正 2年):Do-Do(ドド)ボ-ル禁止、*世界初のボウリング専門誌「Bowlers
Journal」発刊
1916年(大正 5年):国際婦人ボウリング協会(WIBC)設立、第
1回WIBCト-ナメント開催
※1929年(昭和 3年):ニュ-ヨ-ク・ウオ-ル街の*株価大暴落、世界的大不況の始まり
※1932年(昭和 7年):米国ボウリング場*経営者協会(BPAA)、デトロイトで設立される
1933年(昭和 9年):最初の「エア・コンデイショニング」、ボウリング場に登場
ル-ズベルト大統領(33-36年)「*ニュ-デイ-ル政策」発表、大不況を救う
・・・ニュ-・デイ-ル政策は、ボウリングなど 「スポ-ツ振興の大いなるきっかけ」となる
1935年(昭和10年):ボウリングが「ラジオ」に登場、その名は「10ピン・タトラ-」、現在も放送は続いている
1936年 (昭和11年):ジュニア(18才以下)のボウラ-組織
「AJBC、American Junior Bowling Congress」発足、1982年にYABA(Young
American Bowlers Association)として統合される
1939年(昭和14年)ア-リ-・ブラント(Allie
Brandt),ニュ-ヨ-クで 3Gシリ-ズ886点をマ-ク(ギネス記録となる)
黒人ボウラ-スの組織(National
Negro Bowling Association)発足
1940年(昭和15年):The Billiard and Bowling
Institute of America 始まる
1941年(昭和16年):第1回オ-ル・スタ-(All Star)始まる、ABCの名誉の殿堂(Hall
of Fame)始まる
※1942年(昭和17年):第2次世界大戦下、*各ボウリング場が「ピン・ボ-イの不足」に悩む
1943年(昭和18年):米国ボウリング協議会(National
Bowling Council、NBC)組織される
1945年(昭和20年):第2次世界大戦、日本の敗戦で終わる
※1946年(昭和21年):AMFが世界初の*自動ピン・セッタ-・マシ-ンをニュ-ヨ-クでデモンストレ-ション
京都で*第1回の「国民体育大会」始まる
日本各地に、*米軍基地のボウリング・センタ-がおよそ400レ-ン設置される
※1947年(昭和22年):初の*「テレビ・ボウリング・ショ-」が、ニュ-ヨ-クでオン・エア!
1948年(昭和23年):ラミネ-ト張りのボウリング・ピンが登場
1949年(昭和24年):ボウル・モア社の自動ピン・セッタ-・マシ-ン登場
[ボウリング・ブームの社会史]宮田哲郎著より抜粋
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