普及活動のページ レッツ・ゴー・ボウリング! 第28章
宮田 哲郎
(社)日本プロボウリング協会 (社)日本体育学会・体育経営管理部会員
平成19(2007)年11月1日号
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目次 |
ボウリング・ブームの社会史(その6)
例年、いまごろは多忙を極める時期です。
顧問会社の巡回(センター周辺の体育・スポーツ行政へ
のロビー活動と社員研修会)、所属している学会とシン
ポジュームが加わり、おまけになぜか執筆の依頼が多い
からです。ストレスで体重が増えましたが、お陰で健康
かつ意欲満々です。
嬉しかったのは、*(社)北海道ボウリング場協会の
「もう一度はじめませんか? 健康スポーツ・ボウリング
・物識りガイド」を監修、制作が完成したことです。
1970年代ブーム期に若者だった団塊世代に、あの
懐かしいボウリングをまた!と提案する小冊子です。
問合せ (社)北海道ボウリング場協会
札幌市中央区南3条西3丁目三信ビル
電話011−210−7127
というわけで、今回ブームの社会史は、ようやく我国の
話になります。「ブームの今昔を評論」する記事はずいぶん
ありましたが、ここでは戦後日本の大衆文化と生活、ブーム
が発生した社会と経済の理由など、少しお話してみましょう。
開高 健「日本人の遊び場」1963年より
芥川賞はじめ数々の文学賞に輝く一方、世界中の河川、
海を彷徨する釣師だった開高(1930−89年)の
作品には、戦後日本の大衆を凝視したルポルタージュ
*「路上にて」と題する極上のノンフイクション作品
がある。ここには不滅の名品「ずばり東京」のほかに、
「日本人の遊び場」があり、当時の庶民の生活実感が
こもっている*[ボーリング場]の記述がある。
*開高 健 全ノンフイクション「路上にて」文藝春秋社刊。
1970年当時の国語表記は、現在のボウリングではなく、
「ボーリング」が正しいとされていた。
ルポの舞台は、我国初のボウリング場、東京都港区青山の
東京ボーリング・センターである。その頃1台600万円
する設備が40レーン、2億4千万円をかけたボウリング場
の様子を「能率・明快・単純・豪奢・騒音・清潔・健康・広大
・ ジュークボックス・コカコーラ・ホットドッグ」と表現、
随所に「ここは正にアメリカ・・・である」(筆者まとめ)と
している。
いま昭和をテーマにした映画が人気ですが、戦後の実に貧し
かった日本人の憧れは、「すべてに豊かなアメリカ」でした。
着るものと食べるもの、スポーツや遊び・・・、すべてが
憧れであり、実にカッコよかったのです。
しかし、「文化の象徴」としてのボウリングが大ブームを
迎えるに至るには、このうえに世界が奇跡と認めた経済復興
政策の成功が必要だったのです。
所得倍増計画の成功とブーム発生
第1号の東京ボーリング・センター開業以来、第2号が開業
するまでおよそ8年の歳月を要したが、1960年代(昭和
35年)以降のの国民生活改善と消費動向の変化は著しく、
「衣の時代」からテレビ・冷蔵庫、電気洗濯機など*「耐久
消費財の時代」へと進化しました。
*3C時代:カー・クーラー・カラーテレビ
更に、昭和35年12月発表の池田勇人内閣の所得倍増計画
の成功が我国の本格的な繁栄をもたらし、残業報酬が本給に
迫るほどの好況が長く続いた。それまで、1ゲーム150円
だった料金は、昭和35年以降250円となり、自動ピン・
セッターの本格普及もあり、揺籃期に苦しかった経営を大い
に助け、ボウリング産業の第一次成長期となりました。
当時の売り上げは、レーンあたり50―55ゲーム、経営が
成り立つ「レーンあたり人口は1万人」とされ、レーンが乱立
する昭和40年代なかごろまでの指標とされていた。
いまふりかえると、第二次成長期は昭和42年(1967年)
以降だったと思われる。ゲームの楽しさ、手軽さなど本来的な
魅力に加え、ボウリング場の雰囲気は憧れのアメリカだった。
その上、家庭はもちろん学校、職場でさえエアコンが珍しい
時代の冷暖房は、やはり「非日常的な空間」だったのです。
そして、大ブームの頂点は3年後の昭和45年(1970年)
ごろから突然訪れる。およそすべての産業が事業に参入した
結果、需要と供給のバランスが急速に崩れた。ゲーム料は
300円に値上げされたが、過去19年間につくられた数の
2倍にあたるセンターが1年間でオープンするという狂乱の
時期を迎えたのです。
動きを強めたのは、政府の金融統制と企業の遊休土地を活用
するきっかけは、1971年からの「ドル・ショック」です。
1972年の設備投資総額は12兆2,712億円。土地を
含めたレジャー産業では1兆1,415億円でしたが、そのうち
73%(8,361億円)がボウリング場の建設にあてられていたのです。
信じられないことに、この年の鉄鋼、石油精製、電子、電気機械
などの設備投資額とほぼ同額だったことです。1972年の
市場規模は4,630億円、70年は1,860億ですから
、2カ年で2.5倍の規模に成長したことになります。
ちなみに、1973年ごろのレーン当たりの設備投資額は、
現在の3分の1程度となる1,500万円でした。ピーク時
は124、288レーン(3,882センター)が稼動して
いましたが、レーンあたり人口は山間僻地、幼児や老人の
人口数まで含めても1,000人を割っており、都市や国道
沿いなどでは800人を割ったといわれています。
所得の伸長と時代の勢い
1970年代の所得の伸長ぶりについて、再考しよう。
指標は全国平均賃金と賃上げ(春闘)率にあるが、昭和
42年の平均賃金は25,087円。春闘賃上率は13.
50%でした。
翌年からは毎年15.2%、16.4%、20.5%と
二ケタづつ伸長、10年後の昭和51年になると102.
442円、給料が2倍となったのでした。平成ではせいぜい
1パーセント台ですから、まさに「月とすっぽん」ほどの
違いがありましたね。
ボウリング・ブームは、アメリカ文化への憧れ、真新しい
レジャーの魅力、加えて限りなく増える可処分所得と限りない
将来への希望が背景となって拡大し続けたのです。
しかし、好事魔多し・・・。
オイル・ショックと国家経済の危機、ボウリングの需給バランス
の崩れが顕在化した業界は、過当競争の果てに奈落の底に突き落と
されました。当時の損益分岐点は、投資後4−5年後のセンター
で35−40G、新設で55−60Gが必要とされていたのです。
ブームは、1972年の春から急速に萎縮しました。あるセンター
では10ヶ月のあいだに70Gから30Gまで急減、全国では
1,060社以上が閉鎖、ピークの3分の1まで減ってしまった
のです。
ブーム終焉から学ぶものは、ただ一つ!!
最後に、ブームの終焉を分析した往時の幾つかの*学術論文から
、業界の反省と将来について記したものを箇条書きで紹介して
おきましょう。 *例えば・・・、
1980年「レジャー産業成長の構造」同志社大学 玉村和彦教授
1.レジャーの大量生産と供給に自ずから限界があり、業界の
安定と発展には「新規収益源」を探し続けなければならない。
2.単なるレジャー産業では、ライフサイクルが極めて短い。
(新たな業種を探し回ることばかりではなく)売上げ向上の
「新しい業態」を探し、つくりあげることが必要である。
私見であるが、上のふたつの結論から得られるこたえは、只ひとつ
です。ボウリング事業が、このままいつまでも単純娯楽の需要に
頼りきっているわけにはいかないことです。単純娯楽のボウリング
は、他種の耐久消費財と比べて、はるかに早くライフサイクルの波
が押し寄せる性質があり、しかも同じコンセプトの競合レジャーや
「暇潰しアイテム」は続々と登場しているのですから。
言い換えれば、売り手側が安易だからといって「誰にでも、手軽に
楽しめる部分」だけを強調して、安直なセールスばかりしていると
早く「飽きられてしまう」からなのですね。
⇒次号に続く「日本ボウリング・ブームの社会史」

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