◆オリンピックと私-2◆

東京オリンピック入賞メダル(提供 秩父宮記念スポ−ツ博物館)
東京オリンピック入賞メダル(提供 秩父宮記念スポ−ツ博物館)


第2回
第1回

●失敗で気付いた競技者の心 小野 清子 氏(JOC副会長・東京都ボウリング連盟会長)

大学3年生の時、メルボルンオリンピック大会が開催された。女子体操はオリンピック大会参加の歴史がなく、この大会に参加出来るかどうかも分からなかった。その内、チ−ムとしては難しいが、個人参加は許されるかもしれないという噂が聞こえてきた。一人なのか二人なのかも分からない。私にとってこの大会は遠い他人事のようにしか考えられなかった。オリンピック前年の秋、全日本選手権大会の頃に、ようやくチ−ムとして参加出来そうだというニュ−スが入ってきた。私は個人総合の成績では6位以内に入っていたが、何が何でも勝ち抜いてという気持ちではなく従来通りの練習をして最終予選の日を迎えた。平均台の規定演技で失敗し、それが最後までひびいて私は羽田での見送り組になってしまった。

競技が終わった東京体育館の西側客席を見ると沈む太陽の逆光の中に母の姿を見つけた。しまった!何とも云えない後悔の念で体が熱くなった。母は笑顔でこう云った。「ご苦労さま、ゆっくり休みなさい。私はこのまま帰るから送らなくてもいいからね」と。涙が出たのは夜寝床に入ってからだった。私だったら笑顔などできないだろうし、娘の顔を見ないで帰ってしまうかもしれない。母の優しさと強さを痛いほど感じた。そして選手として選ばれて本心喜んだ笑顔を母からもらいたい。心からそう思った。何よりも同じ体育館で練習を共にしていた同級生二人が選ばれたことは、私にもオリンピックに参加する可能性があるという実感を持つことが出来たことは幸せなことであった。それ以降私は練習中、いつでも試合と同じ緊張感を持ち、失敗しそうになった時には修正技法や、得点を得るための構成、採点規則の勉強、体調や、技の習得の記録、試合の反省等、日記を書き、自らを信じられるように、もう一人のコ−チという自分を存在させていった。チ−ムゲ−ムのように、声をかけ励まし合うことの出来ない体操競技は、自分で自分を律して励ましていくしか方法がないのである。2年後、モスクワの世界選手権、4年後、ロ−マのオリンピック大会、さらに4年後、日本に於いて初めての東京オリンピック大会へと参加し、メルボルンオリンピック不参加の教訓は、競技のみではなく私の人生そのものにも大きな教訓となったと思っている。(つづく)

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